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参考資料

このゲームの史実部分は、以下の資料で確かめられた範囲で描いています。

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史実・伝承・創作の区別

史実 資料で確認できたこと 伝承 伝えられているが確証が弱いこと(ゲーム内でもそう表示) 創作 物語として加えたこと

章史実伝承創作
序章1791年 郡山(二本松藩領)の安積国造神社の宮司・安藤親重の三男として生まれる、名は重信・通称は祐助、二本松藩の儒者・今泉徳輔に学ぶ、郡山は奥州街道の宿場町兄・重満から大きな影響を受けたとされること父・母・兄・村の子のセリフ、今泉徳輔と会う場面の場所
第一章1806年 16歳で近くの村の里正(今泉家)の婿となる、1807年 17歳で単身江戸へ妻にうとまれたことが発奮のきっかけとされること(ゲーム内でも「伝えられる」と表示)、江戸へ向かう途中で僧・日明と出会い、その紹介で佐藤一斎に学んだこと義父・妻・幼なじみ・日明のセリフ、あんどんの灯りで決心する場面
第二章佐藤一斎の学僕となる、1810年 20歳で林述斎に入門、一斎の「三学戒」(のちに『言志晩録』に書かれた言葉と表示)—水くみ・薪割り・写本の場面(学僕の仕事の具体例はゲーム用)、写本ミニゲームの出題(『論語』から作成)
第三章1814年 24歳で神田駿河台の旗本・小栗家屋敷内に塾「見山楼」を開く駿河台の地名の由来(駿府から移った家臣が住んだため、といわれる)小栗家の用人・町の人・門人のセリフ、門人がやめたがる場面(『艮斎間話』の考え「途中でやめれば、それまでの苦労もむだになる」をもとにした言葉と表示)
第四章1832年『艮斎文略』で名声、尚歯会に参加し渡辺崋山らと交わる、小栗忠順(剛太郎)が屋敷内の塾で学ぶ、1837年 モリソン号事件、1839年 蛮社の獄、1841年 崋山の死—本屋・剛太郎・崋山のセリフ、剛太郎に『孟子』を教える場面、講義ミニゲーム(門人それぞれの悩みと、艮斎の答えはゲーム用。素読から学ぶこと、さまざまな身分の門人がいたこと、朱子学を中心に陽明学なども取りいれたことは史実にもとづく)、尚歯会の場面の様子
第五章1836年 二本松藩の出入儒、1843年 藩校・敬学館の教授(150石)、約1年半つとめる、二本松城(霞ヶ城)、郡山が二本松藩領であること—藩の重役・藩士の子たちのセリフ
第六章1848年ごろ『洋外紀略』(全3巻・漢文、西洋諸国の紹介と論評)、1842年 打払令の緩和、1840〜1842年 アヘン戦争、1850年 60歳で昌平坂学問所(昌平黌)教授、1851年 吉田松陰が江戸で艮斎に学ぶ—門人・使者・松陰のセリフ、世界地図ミニゲームの問題(当時の国々の姿をもとにしたゲーム用の問題と表示)
終章1853年 ペリー来航と国書、アメリカ国書の翻訳、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草、『盪蛮彙議』、1854年 日米和親条約、万延元年11月21日(1861年1月1日)に死去・享年70、門人帳(約2,280名・福島県重要文化財)、主な門人(小栗忠順・栗本鋤雲・吉田松陰・高杉晋作・岩崎弥太郎・前島密・清河八郎・秋月悌次郎・近藤長次郎・安場保和)、安積艮斎記念館、1859年 吉田松陰が安政の大獄で刑死、1860年(万延元年)小栗忠順が遣米使節として世界を一周して帰国、湯島聖堂に孔子がまつられていること—小栗・役人のセリフ、国書の画面(イメージ)、門人帳の画面(イメージ)、門人帳クイズ
全編——紙魚のあやかし(ナカダルミ・オソレなど)との問答バトル、四書五経あつめ、どうぐとわざの仕組み

ウェブ資料

古典・原文

おことわり

このゲームはフィクションの結末を入れず、史実の生涯を描いています。会話の細部は物語として補っています。没年は、万延元年11月21日が西暦では1861年1月1日にあたるため、資料によって1860年・1861年の両方の書き方があります。誤りに気づいた方は、制作者までお知らせいただけるとうれしいです。